声がする。 眠りの淵に囚われて、蕩々とした波間に揺れて微睡む。 意識が茫洋と霞んで、けれど何処か冴えているそんな時。 あえかな陽射しにさやさやと唄う梢に、過去の残影が梵天を呼ぶ。 離れない 結び目 「鶸」 それは影にあって温もらない、冬季の鉱石のように冷えた透明な音。それでも限りなく柔らかく優しく彼を呼ぶのだ。 「鶸」 主たる樹妖に向けるような自身が甘えた響きではなく、まるでとろける蜜のように甘やかに覆うようにして、想い人に睦言を囁くかの如く大妖はあまりにも小さな異種子の名を紡ぐ。 「鶸、どこだい?」 長物が地を這う独特の鈍い音を生みながら、白緑は己が庇護するあまりにも稚い命を探す。ともすれば見落として自身で潰しかねない小さな小さな愛し子。 他愛もない命を気まぐれに拾い上げたその時に、大妖の冷えた膚を灼いた戦くほどの高い熱、熱、熱。伝わる早鐘を打つように絶え間なく急き立てる鼓動に反して、ほんの僅かに身動いだだけで壊してしまえる軟く脆く、華奢な骨肉。その不可思議に驚歎し瞬いた白緑は手にした雛を覗き込み、密やかに吐息を吹きかけた。 「そんなにも早く脈打つと、逆に止まってしまうよ」 その溶けいりそうに穏やかな大気の震えに、このような優しい声を出せるのだと自身すら初めて知り得た白緑は、長の年月に鈍重になった心裡に波紋を呼び起こしたか細く、全きの重みすら感じない体躯と灼けるような温度の奇妙なその命が愛おしくてたまらなくなった。 雛の在り方は極自然の事であれ、強大に成りすぎ畏怖のみを捧げられた、温もりともいえない温もりの乾いた主の温度だけを得てきた蛇妖に、とうに縁のないその苛烈なまでの命を看過することは到底不可能で。火傷しそうなその熱を腕の中に抱え込み、名を与え、大切に大切に慈しんだ。 その養い子を探し、白緑は樹妖の枝葉、根が伸びた領地を這う。 「鶸」 幾度もの呼びかけに答えは返らず、発された声は青々とした梢に吸い込まれて消えていく。それでも飽きることなく繰り返すのに、卑小な妖らが樹々の根本、岩陰といった陰鬱な場所から粛々と姿を現し、甲高い耳障りな声で訴える。 「ビャクロクサマ」 「天座ノオカタ」 「若様」 「ワカサマ」 「アッチ」 「アチラで」 「見タ」 「アチラで」 「アチラで 若様眠ッテル」 うぞうぞと蠢き、一つが話せばその目に止まろうと我先にと主張する靄等の指し示した先に貌を向け半身をうねらせ進みながら、大妖は響きだけは優しげな硬い声で礼を投げる。 「そう。すまないね」 一瞥すらされない、名付け子を呼ぶときとは明らかな差違がある言の葉。それでも形すらろくに持てぬ小妖達にとっては多大な報償であり、与えられたそれに騒々しく喜びに啼きながら彼等は消えていく。これ以上追いすがっては天座の機嫌を害すことを知能の低い者共とて理解している。 もとより白緑は決して大様な妖ではなく、むしろ蛇妖らしい冷血な性質であったのが鶸を拾ってより緩和されたに過ぎない。一度その換気に触れればどうなるか、皆一様に滲む酷薄に悟っている。 そのような些事にすら成らない矮小な妖達の脅えの名残を背にし、言上された方角を周囲に視線を巡らせ這った白緑は漸く求めていた姿を見いだした。 「鶸」 大樹と迄は行かぬが、そこそこの巨木の根本に無防備に四肢を丸めて泰平に寝入る愛し子に、仕様がないとでも言いたげな吐息を零してその傍らまで這い寄った加護者は、蛇身を屈めて覗き込んだ健やかな寝顔に其処を我が場所と定めて蜷局を巻く。 「鶸」 まろみを帯びた幼い、けれど明確な麗貌を木漏れ日が柔らかに照らす。その頭上を覆う光を透かした鮮やかな緑葉にも似る、無造作に伸ばされた緑がかった艶やかな金糸を剥きながら、白緑は限りない愛情を込めてもう一度呼ぶ。 「鶸」 頬を撫で、髪を梳る馴染んださらりと渇いた低温に意識を引かれ、冷たいくせに甘すぎる透徹とした声に眠りを揺り動かされる。赤子がむずがるように身じろいで幼い妖はとろりと目蓋を開いた。途端、朧気な双眸に飛び込んできた笑みを浮かべる蛇妖に思い切り顔を顰める。 「鶸。また近頃のお前と来たら」 皺の寄った眉間と歪められた口唇を残念がり、白緑は眦を下げた。しかしそう呆れた顔をしながらも、その声音を笑みを失っておらず、手は尚も愛しげに鶸を慈しむ。 「そんな顔をして。せっかくの愛らしい顔が台無しだよ」 「五月蠅いよ。関係ないでしょ」 長い爪で傷つけぬよう最大限の注意を払いながら頬を撫でる掌が、指先に変わり弾力を楽しむように突つきだしたのを期に、幼い妖は頭を振って構う蛇妖を払い退けようとする。 その拒否の仕草に退くかに見えた腕は、けれど大人しく引き下がることなく再度伸びて稚い肢体にするりと回った。白緑は囚えた体を引き上げ、自身の胸に手毬のような頭を押しつけ細腰を抱いて囲い込む。 「何するの!!」 体格の差を見せつけるかの如くいとも容易く扱われ、赤子のように抱かれるのは子供の矜恃をいたく刺激した。顔を埋める硬い胸から逃れようと頼りない腕で精一杯突っぱねるが、びくともしない。 大妖に対するには、鶸はあまりに非力が過ぎた。 羞恥に頬を染め、苛立ちに癇癪を起こして暴れるひな鳥を優しく、だが堅固に抱きしめて動きを封じ、そっと貝殻のような耳朶に唇を近づけた。 「大人しくしておいで、鶸」 いつもと変わらぬ甘やかさの中に、知らぬ異質な色が混じっているのを鶸は敏感に聞き分けた。 ぞわりと腰骨を舐め、羽毛が反り立つような声音のもたらす、なにか不可解で落ち着かない感触。いまだ色欲を知らない子供は己の内より襲う膚を泡立たせる未知に惑乱する。 「な、なにこれ」 咄嗟に押しのけようとしていた手で逆に衣を握りしめ、絶対的な守護を与える養い親に縋ってしまうが、この異変をもたらしたのもまたこの相手である以上、助けなど期待できないとすぐさま悟る。それでも握りしめた拳を開けず、ぞわぞわと未成熟な体を這い回る得体の知れぬ何かにただ身を震わせ、戸惑うばかりの子供のもっとも敏感な箇所である羽の付け根に手を這わせ、蛇妖は軟らかな頭髪に幾度も口付けを落とす。 「鶸」 羽根を愛撫され、ひときわ大きく震え正体のわからぬ不安にしがみつく鶸へ微笑を浮かべ、白緑は声に潜ませた淫気を収めた。 「鶸。私の愛し子。理解しなさい。お前はまだ幼く、己を襲うものが何かすら知らないんだよ。いずれ自ずと巣立つ日が来るまでは、大人しく私の腕の中においで」 その時が来ても、手放せるかは保証できないけれどと養い親が胸中で呟いたのを知らず、普段の響きを取り戻した声に強張りと拒絶をとを解いた仔は、触れてくる手を今度は従順に享受する。 そうしてしまえば、その干渉を、加護を厭いながらも、その冷たい体温に愛されて包まれて生きてきた養い子がもとより拒絶しきれるはずもなく、容易く大妖の手指に絆されて安穏に誘われる。 「鶸」 唄うように、白緑は鶸の名を紡ぐ。 鶸、鶸、鶸、と。それこそ、それしか言葉を知らないように幾度も幾度も呼ぶのだ。 まるで子守歌のようなその響きに、逆立っていた雛鳥の意識は安寧に囚われ、深く沈んでいく。 「まだ眠るのかい。鶸」 幼い妖の眠りは、いつだとて呼ばう声と、冷たい温もりを伴っていた。 「鶸」 笑みを含んだ甘い甘い声が呼び、優しい手が幾度も髪を剥き、体を撫でる。 眠りに意識を委ねる度に、胸焼けがするほどに甘い過去の幻影が梵天を訪なう。 「 鶸 」 今も、彼の蛇妖が呼ぶ。 本格的反抗期突入前の白梵 しかし白緑さんとはプラトニックですよ 最初から最後まで おかしいな、ほのぼの親子で終わるはずだったのに |